大学在学中,
自分が将来どの様に生きていけば良いのか,判らなかったのです。
そしてどんな職業を持てば、自分が生活をする上で、何を選択すれば良いのか判らなかったのです。
私はどの様な人生を、これから歩けば良いのか,それが判っていませんでした。
これまでの私の人生は,両親のお陰で、何不自由の無い生活をさせて頂きました。
しかしその為に,何の苦労もせずに生きて来た為に,心は幼すぎ、成長してこなかったのでした。
それこそ完全・完璧な「世間知らずのボンボン」であったという事です。
当時の私の考え方は理想主義者の典型で,少しマルクスもかじっていたせいか、現実と理想,夢とがごちゃ混ぜになってしまっていて,独善的で自分を正当化させるような人間でした。
それは漫画を読んでいて、仮想空間が、さも現実に起こるかのような、そのような錯覚を正しいと思ってしまう精神状態に似ているのでした。
現実に子供の頃、背中に羽が生えて、自由に飛び回っている子供用の漫画がありましたが、それを読んでいて、本当にこの描かれている漫画の羽がこの世に存在しているものだと、いつの間にか信じ込んでいた事が有ったくらいです。
そしてこの羽が欲しいと、母親にものすごくねだっていた事を思い出します。
子供だから当然だという判断と、現実と仮想空間の識別が出来ない幼い心、認識力だったと言う事が出来るでしょう。
今思えば,このような人間では精神的に弱すぎます。
しかし当人にとってみれば,全くその考えが間違っている,幼すぎるという事は判りませんでした。
子供だから当然だとも当時は思っていないし、それしか表現の仕様が無かったのが事実でしょう。
しかし現実は、私には甘くはありませんでした。
容赦なく私は現実の洗礼を受けなければ成らなかったのは仕方が無い事実でした。
大学生の後半になって私は自分の部屋で,一人篭って,人生を考えていました。
当時はじっと考える事がとても多かったことを思い出します。
この姿を見ると、人はうつ病に罹っているのでは無いかと思われても仕方がないと思います。
それくらいに、神経は磨り減るくらい、思考を集中して生きていました。
そしてある時,涙が出るくらい、心が一人ぼっちな感覚に成ったことがあります。
この世界で自分がたった一人しか居ないという、感覚でした。
ちょっとセンチメンタルな,自己陶酔的な感覚でした。
その時でした。何気なく『私はどうしたらいいのでしょうか?』
と,自分の心に問うたのでした。
言葉には出さず,その時は本当に必死の思いで,心に問うたのです。
自分の人生の未来が判らないという、その様な切羽詰った感覚でした。
暫くしてから,以前大学のキャンパスで感じたことが再現しました。
その質問に対して、私の心の中に、感覚が響いたのでした!
『お前は此の侭では駄目になる。外へ出て行きなさい』
この声が,ハッキリと心に聞こえ、響きました。
私はこの時に反射的に,こう言いました。
『ハイ,判りました』
そしてそれに向かって,頭を下げ,お辞儀をしていました。
この単純な問答ですが,なぜかこれだけで私の心は決定付けられました。
本当に大切なことなんですが,自分の人生に大きな影響を与えられました。
今までの私では精神的な人間性が余りにも未熟すぎるが為に,家に居ては駄目だ、親の下から離れなさいという啓示だったと,今は思っています。
この事実があってから、この社会の娑婆の中で、「如何に自分が何も出来ない,何も知らない,心の未熟な存在」として,大きな心のショックと共に,これから生きる事への不安と共に,社会に羽ばたいて行きました。
今の私だと判りますが、私を守ってくれている魂の兄弟姉妹達が、必要な時にアドバイスをしてくれていたという事です。
これは決して私だけの専売特許ではありません。
誰もが、例え信じられなくても、自分から知ろうとしなくても、その魂の兄弟達があなたを見守っているという事実をお話しなければならないでしょう。
だからと言って、無理矢理信じなさいという、高飛車な気持は全くありません。
でも、何も知らなくても、誰れ彼も魂の姉妹達が見守っているということなのです。
人にはそれぞれ誰にも、一番判ってくれている魂の兄弟がいます。
だから一人ぽっちという事は絶対にあり得ません。
別に複雑なメカニズムはありませんが、魂の仕組みは、一つの本体に、五つの分身が共に原子と分子の関係に似た形であの世で存在していると言われます。
そしてこの世に「心の修行」の為に、神様の許しを得て、自分の目標をクリアするために、そしてこの地上を[神の国]にするために生まれて来ていると言われます。
ところで急にこの様な言葉を聞くことで眉毛を「への字」に曲げる人が居ますが、それはそれで仕方がありません。
「神の国」と言われて直ぐ理解出来る人は少ないと思います。それが普通ですね。
私もその中の一人だったのは間違いありません。
全く信じてなんかいませんでした。
しかし心の仕組みは巧みで、その全てを「オギャー」と鳴いて生まれて来た瞬間に、心は「潜在意識」と「表面意識」とに別れてしまうようです。
そして人はその0%の意識である表面意識からスタートしなければいけなくなり、これが人の、この世での始まりになるようです。
そして「人生の冒険」は始まってしまいます。
これは「自分が望んで生まれて来ている」事を、自覚する必要があるようです。
自分で選んで生まれてきている人生だと自覚できて、それから自分の「心の修正」をして行く「旅」が始まるのです。
この人生は、自分の心を修正するための修行の「場」であるということになります。
だからこそ、人の魂は永遠にこの人生の「場」に降り立って、心の修正を行っていくようです。
「神様と私」という関係はこの密接な関係を基にして、常に契約しているのです。
「自分はそんな神様と契約なんかしていない」という人が殆どでしょう。
それは判らなくて当然だと思います。私もそうでした。
しかし心の奥深くに、その記憶が必ず残っているものです。
誰もが必ず一度は神様と出会っているようです。
それを紐解く必要があると思うのです。
その世界が「潜在意識」の中にしっかりと残っているようです。
私も夢のような感覚で、分身達に出会ったことがあります。
もしかしたらそう思っているだけかも知れません。
でも彼らと、本当に懐かしい思いで、出会ったことが一回だけ有ります。
その場所は空の上、雲の上、上空という感覚でした。
誰かが私の側に居て、私と一緒にというのか、私をその場所に連れて行ったというのか、そこの場所に降り立った感覚がありました。
その場所は特定の目印のある所ではありませんでした。
そうしたら目の前に白装束の、ギリシャ時代の衣服を身に纏った、年齢は二十代後半から三十歳くらいのとても美男子な男性が笑顔で近づいて来ました。
それから女性が三人と男性が一人来られました。
本当に皆美男子と美女でした。ギリシャ時代の顔形でした。(その様に感じました)
最初はいぶかしく思ったのですが、彼らの見覚えは無いのですが、何故か物凄く懐かしくて、私は喋っていたようです。
私の心は懐かしく、嬉しくて、何とも言えない感覚に陥りました。
そしてどれくらい経ったのかは判りませんが、暫くして心に「時間が来たよ」という合図がありました。
最初から側に居る、誰かは判らないのですが、その方に促され、降りて来たという感覚があります。
降りてくる時に、「帰りたくないよ」「このままで居たいよ」と心は訴えていました。涙が出るくらいそう思ったんです。
ハッキリ言って、この地球に、この三次元の世界に戻りたくなかったんです。
だって精神的・肉体的に本当に辛い時だったんだから。
とても心が疲れていた時だったんだから。
だからと言って、この様な夢を見たいなんて願望は全く持っていませんでした。
それまでも一度も考えもしなかったのは事実です。
この下に降りるという感覚になって、上に居る彼らは、全員私に手を振って「頑張ってね」という、心に感じる波動を送って見送ってくれました。
今もその光景は忘れる事は出来ません。
そしてこの肉体に入ってくる感覚で目が覚めました。
それからこの夢?は、夢ではないという感覚で今もしっかりと記憶しています。
今こうして書いていても、その時の感動はあります。残っています。
別に信じて貰いたいなんて思っていません。
自分だけが信じていればいいのですから。
誰にも判って貰いたいとも思っていません。
でもしっかりと自分は一人ではないということが判ったのです。
これは誰もが同じなんです。
生きている間に、神様のこと、「魂は永遠」であることをしっかりと認識されることを私は希望します。
そうしたら、きっとこの地球上の人間は、全員救われる時が訪れます。
それが判らないから、地獄の連中の思い通りに、動かされているだけなんですから。
でも地獄の連中といっても、神様の存在とその慈愛とが判らない、理解出来ない連中ではあっても、決して我々と全く違う魂ではありません。
ただこの様なことを理解できない、また出来ていない魂だからこそ迷ってしまって、自分を知らないために本来あるべき所に帰れないだけなのです。
そして彼らも、以前はこの地上で生活していた、魂の仲間なんですから。
でも我々も「心知らずば、同じ穴の狢(むじな)」となってしまいます。
何があっても、心を常に見つめ、自分の心の「良心」と共に生きて行きましょう。
そして心の中に、神様と共に歩む自分を形成して行きましょう。
神様への愛(アガペー)は、常に誰もが持っており、それをいつも現しています。
ただその事実に気が付いていないだけなんですね。
すでに我々はその環境の中に、何億年という人生を繰り返し生きている魂達なんですから。
自分の心に問い続け、その言葉を鵜呑みにしないで、しっかりと把握するように、自分の心に疑問追求を止めないことです。
自分が理解できる言葉を、実行していきましょう。
頭の理解だけではそれは絵に描いた餅と同じで、何も実践していないことと同じでしょう。
しっかりとやって行く努力をして行きましょう。そうすれば、必ず答えは目の前に現れます。
神様は、「どんな困難でも必ず解決できる道」を用意されています。
だから、「その人でなければ解決できない問題しか与えられない」という事です。
これも神様の慈愛です。
なぜ人殺しがいけないのか、戦争がいけないのか、人の心を傷つけたらいけないのか、その他諸々の問題を理解する事が出来ます。
頑張って共に手をつないで、生きて行きましょう。